caprinのミク廃更生日記

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広島県で『ケロロ軍曹』が放送されてなかった理由 (ARTIFACT@ハテナ系)

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20061102/keroro

 広島は広島県三次市の話であるアニメ「朝霧の巫女」でさえ放送されなかった民放4局の地方都市だから、「ケロロ」が放送されないのも別段不思議はない。単に民放が少ないとか、アニメに強いテレビ東京系の放送がないとかいう理由の方が正解に近いだろう。ただ、戦争、とりわけ核爆弾について敏感な広島県人が「ケロロ」を不謹慎だと思う人は多いかもしれないが、その怒りは「クレヨンしんちゃん」の下品なものに対する反感と対して変わらないと思う。本当に怒りを覚えるような上の世代はそもそもアニメを見ないわけで、そういう団体が圧力をかけてくるとも思えない。


・関連リンク 広島在住者として一言 (ラブラブドキュンパックリコ)

http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20061103/1162466775


・関連リンク 平和都市、広島のプレッシャー〜”語り継ぐ”ということに対する精神的プレッシャー〜 (振り逃げプロ野球)

http://redhotmuzik.blog12.fc2.com/blog-entry-396.html

今回のエントリーの題名の由来は、広島在住のジャーナリストに「いまむらただし」さん(サンケイスポーツの今村忠さんとは別人です)という人がいて、その方がラジオ番組の中で、こういうことをおっしゃっていました。
広島県の人は原爆のことを語ることを重荷に感じている人が多い」
と。
この言葉を聴いて、私が広島の人があまりに原爆のことを語らないので、「広島の人はなんて冷たいんだ」と思っていたが、この言葉で誤解が解けた。
そうだ。考えてみれば、原爆が落とされたことで「語り継がなければならない」という「一部」からのプレッシャーに、
「そりゃ、原爆を落とされるのはイヤだし、戦争なんてないほうがいい。平和がいいと思うけど、「語り継ぐ」っているのは重い」
と思っている人のほうが大多数だなあ、と思うようになった。

私が高校生のとき、語り部の人が来られて、被爆の体験を語っておられた。
その後の放課後、部活で若い女性の先生が、
「ああ、長かった。話を聞くのが、めんどい」
みたいな事を言っていた(内容は厳密には覚えていないが、こんな感じ)。
彼女はバリバリの広島人。
部活の友達と私は県外出身である。
県外出身の私は語り部の人の話を真剣に聞いていた。
なので、広島出身である彼女のこの言葉にはびっくりした。
今思えば、広島の人にとって、原爆の話は重荷で、できることなら話したくないことであることがわかるが、当時の私は、
「広島出身なのに、何でそんな意見なんだ」
と憤慨しました。
憤慨した理由はラジオで広島の人が手紙で、
「広島以外の人は平和のことを考えていない」
みたいなことを書く人が一方でいたからだ。
今思えば、それは人それぞれとわかるが、県外出身者としては、やはり、頭にくる文言だった。
一方の広島人はそういう。
一方の広島人はこういう。
広島出身者も人それぞれ、ということだ。
で、だいたいの人はあまり語らないし、語りたがらない。
重荷に感じているのだ。

 まあ、人それぞれだろうなあ。しかし、ひどい先生だなあと思う一方、こういう被爆体験談というのは広島の学校では小学生の頃から毎年と言ってもよいくらいに繰り返しされるもので、語り部の内容が似たり寄ったりな話だと「またか…」と生徒が思っていた節はある。(だからこそ、先生がそういうことを口に出してはいけないわけだが)

 で、ここからは広島育ち、大阪在住人の単なる独り言であり、誰か特定の人を非難しようとかそういうものではなく、ただ自分の中にある広島の戦争観をちょっと書いてみる。Blogを書くような世代のほとんどがそうであるように、もちろん私も自分の親も本当の戦争は体験しておらず、そういう意味では言葉に実像がなく軽いわけだが、それはもう日本全体がそうであるのでこの流れはどうしようもないかもしれない。
 ただ、広島県人に戦争を「語り継ぐ」プレッシャーがあったのかどうかは分からないが、私が小学生の時、大人たちの間で戦争の話、特に原爆の話をすることはタブーな雰囲気は確かにあったと思う。親戚達が集まる田舎の正月なんかでは、戦争を体験したおじいちゃん達や、爆弾を投下された街に住んでいたおばあちゃん達がたくさんいて、彼らは子供の眼でも分かりやすい形…、つまり、それは片腕を失っていたり、放射能によって眼が見えなくなってしまった人、半身を火傷によってまだら模様にされてしまった人も少なからずいた。その中には、戦争時の自分の活躍を大げさに語る人もいたが、それでも原爆投下時の話を嬉々として語る者はまったくいなかった。いや、正確には酔っぱらってしまって語ろうとしたおじいちゃんもいたが、すぐにおばあちゃんに「そういうことは子供にはせんでええけえ…」と言われて口止めされていたように記憶している。そういった雰囲気の中で、案外広島出身の人間は身近な人の言葉で原爆の話を聞いていなかったのかもしれないなあと思う。だから、少なくとも私には「後世に戦争の悲惨さを語り継がないといけない」と胸をはって言えるほどの体験談も語り部の言葉も残念ながら持ち合わせてはいないし、空虚に誰でも言えるような「戦争は良くない、核は良くない。」と言ったところで言葉に全然重みがないのだ。そして、自分が少しぐらいは分別がつくようになった高校生ぐらいの時には、彼ら語り部のほとんどは硬く口を閉ざしたまま、その悲しみも怒りも一緒に墓場に持っていってしまったようだった。

 だけどなあ、自分達の間でブラックジョークとして言うのはいいが、県外の人に「広島って、まだ放射能が残ってるんだろ!?」とか「広島の川にはまだたくさんの骸骨が沈んでいるんだろ!?」と言われたのははっきりいって嫌な気分になったし、他県の大学生に平和公園の平和の象徴である千羽鶴の折鶴を燃やされたのはとても悲しい気持ちになった。また、「原爆オナニーズ」がどんなに立派な反戦を語ろうと、「原爆とオナニーをくっつけるなよ」と思うし、「はだしのゲン」を「北斗の拳」や「デスノート」と同レベルのコラにして笑いものにするだけなのもなんか違和感があるのだ。