caprinのミク廃更生日記

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「正社員の待遇劣化+ホワイトカラー・エグゼンプション」という死のコンボ (想像力はベッドルームと路上から)

http://d.hatena.ne.jp/inumash/20061219/p1

そもそも労組がとっとと非正規雇用者の組織化に本腰入れてれば、その「数の力」において対抗する戦術も採れたのに、長期的な視野を欠いた上「自身の権利」とやらを守ることに必死になって、真の意味での「労働者の権利」をないがしろにしてきたのことの総括がなされてないのが腹が立つ。「物分りが良すぎた」よりも、「グルになってた」って表現の方が個人的にはリアリティがあるし。

大体さ、今回の「労働ビックバン」で最も被害が大きいのって、20代〜30代くらいのこれから社会で中心になっていく世代でしょ?なんでこんな「もうすぐ隠居」みたいなジジイが代弁してんだよ。「賛成派」にしろ「反対派」にしろ、本当の意味での「当事者」の声って経営者の声しか出てこないじゃないか馬鹿。手前はとっとと隠居して当事者世代にバトン引き継げ。その方が遥かに社会に対する影響力が増すわ。

「労働」はそうではない。「労働」の制限は「生活」に直結する。運用する資産を持たない無産階級にとって、「労働力と資本の交換」は自らの生活を成す上で必須であり、それが公正に機能しないということは即ち実際の「生活」が機能しないということである。

例えば、先日放送されたNHKの「ワーキングプアⅡ」に登場したシングルマザーが、憲法改正や教育改革に反対する社会運動に参加できると思うだろうか。自身の生活すらままならない人間がそのような運動に参加するには、生活そのものを切り捨てるか、その「運動」によって生活していく(=プロ市民化)するしかないのではないか。

労働者から余力を奪おうとする権力の動向は、単に資本家の利益配分を増加させるのみならず、「運動」、すなわち「社会参加」による階級の不安定化を抑える目的もあるのではないか。であるならば、「労働」の公正さを単なる「権利の一部」として捉えるのではなく、「社会」の公正さと同義であると考えることが必要だと思う。

生活が立ち行かなくなった人間が社会に向かう時、それは人間の剥き出しの「生」が社会に叩きつけられる瞬間になるだろう。集団化した「それ」は果たして何と名付けられるのだろうか。


・関連リンク 安倍内閣の殺人経済政策 (きまぐれな日々)

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