caprinのミク廃更生日記

初音ミクやVocaloid、ゲームやアニメのニュースサイト

新海誠における再会と喪失の問題――『秒速5センチメートル』を見て (metamorphosis)

http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20070325#1174775444

 こうした観点から見るのであれば、『秒速5センチメートル』は、受取人の場所を常に取っておいているのに、いつまで経ってもメッセージがやってこない、そのような人物を描いた作品だと言えるかも知れない。それでも、第一話の「桜花抄」だけは、用意していた場所にメッセージがやってきた物語だと言うことはできるだろう。ここでの主題は、ある種、「約束の場所」の主題だと言えるが、つまるところ、待っていたものがやってきた話だと言える。ここでの約束は、特定の時間や場所に拘束されないものであり、電車の遅れなどによってもたらされる障害が、約束の場所の価値を極限にまで高めていると言える。


 それとは対照的に、第二話と第三話に見出されるのは、受取人の場所に何もやってこない物語だと言えるが、さらに厳密に言えば、ここにおいて、メッセージは、決してやってこなかったわけではなく、それ以前に、すでに送られてきていた、と考えられるだろう。それは、第一話において、貴樹と明里が再会したとき、この再会が同時に、永遠の魂に対して傷をつけているからである(貴樹が永遠の魂を見出したあとに感じた悲しみこそがその傷であり、これこそが決定的なメッセージだと言える)。その点で、この『秒速5センチメートル』という作品は、第一話にそのすべてのエッセンスが詰め込まれた作品だと言えるのであって、第二話と第三話はほとんどおまけのようなものだと言えるだろう。

http://d.hatena.ne.jp/ashizu/


・感想リンク 新海誠秒速5センチメートル」 (なつみかん。)

http://tangerine.sweetstyle.jp/?eid=649943

何を感じるかは人それぞれですが、例え切なくても「それでも世界は美しく、生きるに値するものだ」という解釈もあると思います。しかし本当に美しいのは世界よりも、どんな時もひたむきに生きてきた「彼」や「彼女」の姿ではないでしょうか。振り返ってみればどの瞬間も彼らは輝いていたと思います。どんな状況に置かれていたとしても、俯瞰して見れば一人一人は夜空に輝く星や、舞い散る桜の花びらのように美しいものかもしれない…。これが、この作品を観終わって感じた「感動」とも「泣ける」という感情とも違う、静かで深い衝撃の正体かもしれません。

明確な主題や物語があるわけではなく、雰囲気重視の作品なので万人向けとは言えませんが、公式サイトの画像や映像を見て何か感じるものがある人はぜひ見て頂ければと思います。

http://tangerine.sweetstyle.jp/


・感想リンク 秒速5センチメートル感想 (森のスタッチ)

http://9216.blog82.fc2.com/blog-entry-9.html

この結末や、3話で明里に婚約者の存在を出したことについては賛否両論あるかと思うのですが、少なくとも自分はこれで良かったと考えています。
まぁ最初に見終わった後には、ちょっと複雑な思いが胸の中に沸いてきたりしたのですが(笑)
幸いにもサイン会の時少しお話することが出来たので、新海監督に直接
「ラストで明里が踏切りの向こうに立っているという選択肢はなかったんですか?」
とちょっと意地悪な質問をさせて頂いたのですが、返答は「色々考えたんですけど、やっぱりああでした」ということでした。

必ずハッピーエンドにしなければならないエンターテイメント映画ではないですし、『秒速5センチメートル』という何とも言えぬ切なさを持ったこの作品のラストとして相応しいものであったと思います。

http://9216.blog82.fc2.com/

 これと似た質問で『時をかける少女』を作った細田守監督が映画を観た客に「ラストの二人はキスした方が良かったですか!?」と逆に質問したことがある。多分、作っている人達もラストはいろいろ悩んでいるんだねえ。個人的にはどちらも監督の選んだ選択で間違っていないと思う。


・感想リンク 桜秒速5センチメートル (桜恋)

http://yaplog.jp/cherry-love/archive/404

ラストがどっちに転ぶのか最後までわかりませんでした。
ただ、あれでよかったんだと思います。中学の雪の日、キスを
交わした時を最後に貴樹と明里は会っていません。おそらくは
時間にして10年近く。その10年を最後のシーンで埋めるのは
きっと難しいでしょう。本当に、いやになるくらいリアル。

明里のいない踏切の向こう側にそんなことを思いました。


本当に最後の最後まで芸術作品。
観て損はないです。っていうか観なきゃ損。本当に。麻生さんが
日本のアニメ云々いっていたけれど、アニメを芸術と呼ぶことも
この作品が対象ならまったく抵抗ありません。おすすめです。

http://yaplog.jp/cherry-love/


・感想リンク 高級レストランのシェフがうちのおかんだった件(秒速5センチメートル@名古屋) (アンバー家の晩餐会)

http://d.hatena.ne.jp/kamenoi/20070325

それでもやはりこの作品の根っこの部分は「ありふれた日常を切り取ったもの」にしか思えません。村上作品のように主人公がなにかに巻き込まれたりすることもなければ,まっとうな大人になってから若い頃の不思議な体験に区切りをつける,といったようなこともありません。遠野貴樹は,なんだかよくわからないなにかをひたすら追い続け,まわりのものには目もくれず,あげくのはてに何を追っていたのかよくわからなかった,で話が終わってしまいます。そして,そんな人生は,たぶん誰にでもわかってもらえるほどではないにしろ,そこらじゅうにそれなりの割合であふれています。そういうものが映画になるというのはちょっと予想してませんでして。たとえると,それなりの値段のレストランに夕食を食べに行って,どのメニューもおいしい食材を使ってあって手が込んでるんだけどなんだか妙に馴染み深い味がして,まあでも最後に豪華なデザートでも食えばこの違和感も忘れられるかと思ったらなぜか干し芋が出てきておまけにシェフが挨拶にきたらうちのおかんだった,みたいな。

http://d.hatena.ne.jp/kamenoi/

 その表現はおもしろい。個人的には、うちのおかんにしては料理がうますぎると思ったけど。


・感想リンク なんだろうか?これ・・・。これは皮肉ではなくて「劇映画」としては体を成してない。 (D o g H o u s e B l o g)

http://doghouseblog.com/blog/archives/2007/03/5.html

無意味なPAN等、演出的に違和感を感じるのは前作同様で、改善は感じられなかった。
新海氏の手法は、スタンダードではない奇をてらったアングルの写真レイアウトと、ブックナメなどで普通アニメが拾わないディテールを見せ、画面所情報を嗜好性無くフラットに上げて行き、そのぶんこぼれた物語に必要な情報をモノローグで補填する。
と言うことなのだと思うのだが、やはり押井説のように実写視聴体験として無いアニメ映像は一見して分かり難い。
画面の情報量と、客が受け取れる情報量はイコールでは全然無いわけで。
そのことを気にしてか、文字情報などで説明しようと言う意図も感じれれて
演出に、根本的な矛盾を感じた。

ストーリーは、不可解で、何の意図があるのかわからないエピソードが多く、散漫で虚無的な印象。
各々の物語も連続性が無く、特に3話は殆どタイトルバックのような内容で、オムニバス映画とは言えない。
前作の時も書いたように、葛藤や努力を強引なまでに避けているのだが、避けた結果何も残らなかった、といった感じ。
前作は、怒ったり爆笑したり、僕なりに方向性はともかく感じ入るところはあったのだが、今回はなんとも思わなかった。
唯一、無意味かつ適当なロケットの扱いに怒り狂ったくらいか。
現代が舞台で、しかもかなり私小説的要素が加味され、時代性が強くなり(その考証もいい加減で気になるのだが)
その結果メインターゲット層である春休み中の中高生が受け取りずらい感じになっているのではないか。
ヒロインが「自分に似ている」といってしまうような自己愛的な恋愛等、相変わらずオタクドリームを感じるのだが、今作はテンションが低い。

http://doghouseblog.com/

 これだけ言い切れる人は逆にうらやましい。不満を解消出来る力があれば、後はもう自分で望み通りの映画を作ればいいと思うよ。
 「押井説のように実写視聴体験として無いアニメ映像は一見して分かり難い」の部分がどういうことを言いたいのかちょっと分からなかった。