caprinのミク廃更生日記

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氷河期の猛吹雪にズダボロに引き裂かれた人々と、グングン成長した人たち (分裂勘違い君劇場)

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080228/1204203051

 久々にモヒカン族の真髄を見た気がした。映画とかのマッチョなヒーローは弱い者を助けてくれるけど、現実のマッチョは自己陶酔のみに自分を鍛え、弱者は助けてくれないことが分かった。弱者はただのマッチョではなく正義のヒーローに助けを請おう。というか、マッチョな弾氏なんかに脆弱なココロしか持たない者が「どうしたらいいの? おしえて、ダンコーガイ!」なんて尋ねるのが間違いなんだよね。

これはダンコーガイが非人道的だからではないんだ。ダンコーガイに悪意はない。
マッチョマンに尋ねればマッチョな答えしか返ってこない、という、それだけの話なんだ。
ダンコーガイは頭も体もマッチョなんだ。100%pureマッチョなんだよ。

 いやいや、頭はともかく体はねえ……。「マッチョからはマッチョな答えしか返ってこない」というのは納得。

たとえば、全国平均の事務職の求人倍率は0.21倍。5人に一人しか採用されない猛吹雪だ。
しかし、東京の情報処理技術者求人倍率は5.8倍だ。平均年収も事務職よりはるかに高い。
良質の雇用は、有り余っているんだよ。

 地方にしがみついている奴や、東京で生きていけない軟弱者はみんな死んでいいよということか。みんな東京圏に集合だ。いや、でも人多すぎだって東京。現状だって、ニューヨークのさらに2倍の人口で、圧倒的な世界一の人口密度なのに。

もちろん、これはIT技術者の世界を例として挙げたに過ぎない。
たとえば海外に目を向けてもいい。BRICsVISTA労働市場自由化で急成長中の統合ヨーロッパ。
別産業に生息する目端の利くマッチョたちは、その鋭い嗅覚でまだまだ隠されたお花畑があるのをかぎつけ、いまこの瞬間もおいしい汁を吸ってますます肥え太っていることだろう。

 ゼロサムゲームはもう世界の流れか。日本はそのゲームに取り残されそうになっている。ひきこもっていないで、外に出ろ。

それはともかく。。。マッチョじゃなきゃ豊かに生きていけない社会って、なんだかバイオレンスジャックの関東地獄地震後の弱肉強食ワールドみたいでウンザリではありますね。

マッチョじゃなくてもそこそこ幸せに生きていける社会を作っていきたいものです。

 本当はそんなこと露にも思ってなさそうな付け足しだ。いやあ、すごくおもしろいテキストだったのだけど、その反面「ロストジェネレーション負け組世代」からみたら薄気味悪いテキストでもあった。でも、これから社会に出ていこうとする「ゆとり世代」にはウケが良さそうな気がする。全ては自己責任において競争だ、他人を出し抜き踏みつけて自分だけは勝ち上がり、それでより良い日本にしていこう。(そんなんで本当に良くなるのか!?)


言及リンク ]成功体験では人は救えない (novtan別館)

http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20080229/p1

ITは人の能力を際限なく増加させる。加速度は時に指数関数的だ。サイコガンどころの騒ぎじゃない。その能力に裏打ちされたマッチョが考える「具体策」は、能力を持たないものにとっては単なる机上の空論だ。それに、人を裏切ってはいけない、人にやさしくしなければならない、そういう教育を受けた人が、社会という荒波で、他人を蹴落とさないと生き残れないことを「仕方ないから」と是とするにはどのくらいの精神が必要なのか。競い合い、高めあうのと違う、責任の押し付け合いと要領のよさと。

人を絶望させる成功体験談はいらない(が、参考になることもあるから、語るなというわけでもない)。成功した人が、どうやってその成功を社会にコミットしていく事が、何とかまともに生き残った側の同朋に対する使命なのではないか、とそう思う。タイタニックが沈没するときに、周囲を蹴落としながら金品を略奪しつつ、我先にボートに乗り込んだのではなく、何かを成し遂げる決意をもって、何かに目を瞑ったのであれば。


■関連リンク 小市民も幸せに暮らせる社会へ (雑種路線でいこう)

http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080227/sync

日本だと学校教育がおしなべて変な環境から逃げ出さないパーソナリティを育てているところもあるよね。それは先生自身が殻を破ったことがないというのもあるし、殻を破っちゃうと勉強しないでドロップアウトするしね。否、殻を破って軽々と勉強もこなしちゃう鬼才も時にはいるけれど。本当は、殻を破った奴にも伝わるくらい本質的な言葉ってのがあって、自分の頭で考えて生きてきた奴なら、衒わなくてもそうやって導けるんだけれども、学校の先生には少ないよね。

どんな性格に生まれるかも、いつの時代に生まれるかも、結局のところ運だ。それを他責にしても詮無いし格好悪いから、パチッとモードを切り替えて、自分の性格で今の時代や世界とどう折り合いをつけていくかを考えなきゃいけない。弾さんはたまたま時代の流れに乗ったけど、それだけが正しい人生との向かい合い方じゃないんじゃないですかね。

僕はsync先輩に対してウジウジ文句いってないで世の中と折り合って逞しく生きろよ格好悪いぞって肩を叩きたい一方で、世の政治家や役人に対しては、早く日本をsync先輩のような典型的日本人が大切に育てられ小市民としての幸福を全うできるような、本来あるべき日本社会を恢復して欲しいと切に希う。


■関連リンク ソフトウエアエンジニアの集団転職は間違いなく最強の武器 (Future Insight)

http://d.hatena.ne.jp/gamella/20080228/1204211147

本当にその通りだと思う。優秀なソフトウエアエンジニアは平凡なソフトウエアエンジニアより10倍以上生産性が高いなんていわれているが、優秀なソフトウエアエンジニアが10人集まったときに起きるシナジーは平凡なソフトウエアエンジニアを100人集めても絶対に到達できない未知の領域に突入する。今の会社だって、そういうキーマンとなっている超優秀なエンジニアが十数人いて(残念ながら僕は平凡なソフトウエアエンジニアの一人だけど)彼らの手によって基幹部分の設計は行われ、他のエンジニアは基本的にそのフレームワークに従ってコードを書いている。従って書いている人たちもその分野の専門家なので、優秀なフレームワークさえ用意してもらえるならいいものができる。この超優秀な人たちが集団で会社に交渉すれば、本当に会社は震え上がると思うよ。


■関連リンク 叱ってダンコーガイ(笑) (duck75の日記)

http://d.hatena.ne.jp/duck75/20080229/1204268947

いきなり話が飛んでしまったけど、要は、厚生年金とか、失業手当とか、有給休暇とか、ボーナスとか、なんかの保護政策とか、そういうもの過去に一回ももらったことない。まぁ、就職したことないので当たり前なのだけど(笑)。それで、そういう「環境」に置かれると、なんというか、そういう機関というか、抽象的な「大きな政府」みたいなものが、ないんだという錯覚に陥る。ないのが当たり前として考えてしまう。

それと、なにか、マッチョ、マッチョってみんな言ってるけど、僕なんかはマッチョがだいっ嫌いで、マッチョになったら負けかなと思ってる。少なくとも僕の見る限り、ダンコーガイはマッチョなんかじゃない。あれはあれで、ほんとうは優しいおじさんだと思うな。ただ、優しいだけではサバイブできないってことだと思う。本当の優しさは、強さだよ(って、なんか文章がおかしくなって来たw)。

何が言いたかったんだろう?人を救うのは、マッチョな成功体験ではないかもしれないけど、あるいは、優しさを含んだ本当の強さなら、それは人を救えるかもしれないっていう話。


■関連リンク 自己責任から自己権利へ (404 Blog Not Found)

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51009734.html

一つ聞いておきたいのは、なぜこの入社二年目の時に辞めなかったか、ということ。
逆算するとこの時、君は27歳。転職適齢期だ。
こんないびつな組織が回らない、というのがわからなかったのだろうか。
それとも、転職が怖かったのだろうか。
どんな国の、どんな時代に生まれてくるかは選べない。自らの出生は、確かに自己責任ではない。
しかし、どんな会社にどのように勤めるかは、選ぶ事が出来る。
その意味では、君の今も過去の君が果たした、あるいは果たしそびれた自己責任の結末ではある。

自己責任。これまた変な言葉だ。責任というのは、責任を任せるものと引き受ける者の二者がいてはじめて成立する概念だが、それであれば自己責任というのは、自分のことを自分でやって、その結果を自分で受け止める、ことのはずである。しかしそういう意味で「自己責任」という言葉が使われているところをめったに目にしない。

「会社が押し付けた責任を、いやいや引き受けた結果、壊れました」。これは「責任」ではあっても「自己責任」ではないはず。自己責任というのは、自ら会社と戦うなり辞めるなりして、その結果を受け止めることのはずだ。

まずは、「責任」という言葉を一端忘れて、「権利」を行使しているのだと考えてみてはどうか。「私はこの会社で働く責任がある」のではなく、「私はこの会社で働く権利を行使している」のだと。それだけで、世の中の見え方がだいぶ変わってくるはず。自己責任ではなく自己権利。「やむなく」でなく「あえて」、「余儀なくされる」のではなくて「踏み切る」。

「権利を行使する」。それは「責任を果たす」よりもおそらくきつい生き方だ。「他人のせい」という最も手軽ないいわけを封殺してしまうのだから。しかし私の目から見て幸せそうに生きている人々は、一人の例外もなくそうしている。


■関連リンク 転居することの大きな負担と千早お誕生日おめでとう (HINAGIKU 『らめぇ』)

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080228/1204229625

それだけではない。転居するにあたって失われるものがある。地縁だ。

多かれ少なかれ、大なり小なり、われわれは地域共同体の中で生きている。いつも利用するラーメン屋の人懐っこい店主だとか、コンビニの眼鏡っ子の店員だとか、路地裏のいつも喧嘩に負けている野良猫だとか、そんなレベルでなら、これだけ人付き合いの減った現代日本の首都圏においてさえかかわりがあるはずだ、引きこもりでない限り(引きこもりは転居しない)。もし生まれ育った土地なら、顔なじみははるかに多いだろう。

そして、住んでいる地域の風景そのものにも、少なからず愛着があるものだ。開かずの踏み切りだとか、春になるといい匂いの漂う神社だとか、ある夕暮れどきにたまたま歩いたときの印象が強烈な川沿いの堤防だとか。おそらく地方ほど、その愛着は強いだろう。ファスト風土という言葉が叫ばれるようになったが、中央から睥睨すれば画一化されたファスト風土たちも、そこに住んでいるひとにとっては固有の記憶と結びついた交換不可能な場所だ。あのジャスコのあの店のあの匂い、あの店員。それはほかのところで得られるものではない。

 本当に一人で生きていける人間の引越しは結構簡単なのかも。