caprinのミク廃更生日記

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細田守『時をかける少女』と近藤喜文『耳をすませば』の相同 (博物士)

http://d.hatena.ne.jp/genesis/20060724/p1

**ネタバレあります**

 確かに良く出来た青春物として「時かけ」と「耳をすませば」は似ているな。でも、「耳をすませば」って私のようなヲタクが見るとなんか軽く鬱になってしまうんだよなあ。「俺の青春にこんな輝く時代は無かった、絶望したっ!!」みたいな。(もちろんここは絶望先生の口調で) ヒロイン雫の彼氏(聖司)がバイオリン製作のために海外留学というのも出来すぎているし、中学生のくせに(そしてここはのび太のくせに生意気だというジャイアンの口調で)「結婚しよう」もまっすぐすぎて逆に見ているほうはつらくなる。日陰者のヲタクにとってあの一点のくもりもない太陽のような明るさはまぶしすぎるし、光が強いほどその陰も強くなってしまう。「耳をすませば」のTV再放送のたびに、2chなどで「なんか死にたくなった…」という書き込みが増えるのは決して偶然ではないのだ。まあ、大多数の人がそうであるように彼女達のやり取りを青春の1ページとして微笑ましく見守れるのが、多分、正しい大人としての対応なんだろうけど、こちとらダメヲタで、どこでその正しい道を外れたのやら…、まったくヤレヤレだぜって、結局はうらやましすぎてねたんでしまうっていう単純なことだと思うんだけどね。だって、ねえ、雫にしろ聖司にしろ、未来は明るく、途中で挫折して、小説家になれなかったりバイオリン職人になれなかったとしてもきっと清く正しい大人になれると思うんだよなあ。後ろから見守ってくれる雫のお父さんにしたって聖司のおじいさんにしたって、困っていればきっと手を差し伸べてくれるし、正しい道しるべもちゃんと示してくれるだろうし。

 また、柊あおいの原作漫画の方は少女漫画というファンタジーにパッケージングされていて、あくまで1個人の創作物として安心して見れるのに対して、ジブリ・アニメ版の雫の家は団地で、その生活描写も部屋がお姉ちゃんと共同部屋とか、お父さんは公民図書館職員とか、その妙なリアルさが少女漫画の原作より増しているために「ああ、広い世の中にはこんな純情いちゃつきカップルがもしかしたら存在しているのかもしれない、中学生のくせに」と思わせてしまうところが嫌いだ。(でも、なんだかんだいってアニメとしてみるとジブリの中でも結構好きな作品だ。この痛さを超えて見る楽しさもある、って、マゾかよ。だが、それがイイ!!)


 で、「時かけ」に爽やかさだけを感じ、そこまで嫌悪感を感じなかったのは、最終的に真琴が特定の誰かと明確にくっついたりしかったからかもしれないな。(ああ、なんという器量の狭さよ…。) 真琴の性格って実にさばさばしていて深く悩まないといういかにもアニメ向きなキャラなわけだが、精神年齢では実は高校生の真琴よりも中学生の雫の方が上かもしれない。カラオケ歌い放題のためにタイムリープを繰り返すシーンやプリンや好きな食事にありつこうとするシーンではまったく欲望に忠実というか、本当はすごいことが出来るはずのタイムリープなのに使い方はまったく子供の思いつきだしね。(ま、あざとい使い方や、悪い使い方を思いつかないのが、真琴のいいところでかわいい所でもあるが) そして、最後の跳躍の後、理科室で真琴が友人に「ごめん、私言わなくちゃいけないことがある。私、前から○○が好きだ。」と言う私も気に入ったシーンは、真琴が永遠の夏休みといえるような現状維持から一歩進んで、少しだけ成長した瞬間なんだろうが、その間に何か思い悩むとか、葛藤したというような描写はない。もちろん、映画の演出上、無駄なところとしてカットされたとか、もともと真琴は思い悩むよりも行動が先に出るタイプであるとか、いろいろ考えられるのだけど、ハルヒの原作者、谷川流と一緒でそういうオブラートの包み方や観客を喜ばせる構成は細田守監督も一級品だと思った。スイーツに例えると、「耳をすませば」がこってり甘いチョコレートなら、「時かけ」は甘さを抑えてさっぱりレモンシャーベットというところだろうか。もちろん、貞本義行のどちらかというと淡い系のキャラクター性と、細田守の陰影を重視せず動きで表現するアニメ手法、今の若者をうまく切り取ったキャラにあった声優という奇跡のコラボレーションも見逃せないのだけど…。ジブリさん、やはり声優は結構重要だよ、有名芸能人を使っている場合じゃないよっ!!(徳間出版から独立して、話題作りのための苦肉の策とかは今考えない)

 と、いうわけでBlogなんかでうだうだ自己主張を書くようなヲタク寄りの人には、「耳をすませば」よりも「時をかける少女」の方が受けが良いだろうということで、ファイナルアンサー!? 多分、最後で○○と単純にキスしなかったりするのも、ヲタ好みの寸止めラブコメというか、細田監督の思いやりなのかもしれない。(笑)

 というか、ひとつだけ気になるのだが、ちょっとした大手のヲタサイトでもどこでも絶賛ばかりなので、そろそろひねた「時かけ」論も見たいぞ。


■参考テキスト 『大学での講演(耳をすませばを引き合いに出しての話)』 押井守  1999年

「こういう例を出して適切かどうか分からないけど、『耳をすませば』に出てくるような
健康的な一家を見て、果たしてアニメーションを必要としている今の若い子たちが
勇気づけられることがあるんだろうか。
僕は、ないと思う。『耳をすませば』を見て生きる希望がわいてきたり勇気づけられ
る子は、もともとアニメーションなんか必要としないんだと。

アニメでも映画でも小説でも何でもいいけど、フィクションを人並み以上に
求めている子たちには、ああいう形で理想や情熱を語られても、
むしろプレッシャーにしか感じられないはずだ。僕はそういうものは作らない。

今回もそうだけど、僕が作っているものにあるのは、生きるということは
どう考えたってつらいんだ。
多分、あなた方を取り巻く現実もこれからの人生も、きっとつらいものに違いない。
いろんなものを失っていく過程なんだということ。

生きていれば何かを獲得すると若い人は漠然と思っているんだろうけど、
実際は失っていく過程なんだよって。 」


■関連リンク 『時かけ』公開記念放談 細田守×小黒祐一郎 第4回 イベント性と映画的体験 (WEBアニメスタイル)

http://www.style.fm/as/13_special/houdan_060724.shtml