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小寺信良:知財推進計画が目指す「コンテンツ亡国ニッポン」 (ITmedia +D LifeStyle)

http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0706/11/news013.html

 実は著作権法というのは、厳密に適用しようとすればするほど、新しく発生する文化や流通を阻害するという側面を持っている。例えばアニメやマンガは、日本の重要な輸出コンテンツとして積極的な展開が望まれている分野だ。だがこの分野がここまで成長したのは、「コミケ」があったからであり、同人誌文化がもともと権利者から、「ま、いっか」と許容されてきたからである。その中から多くのクリエイターが産まれ、コンテンツとして成立するルートが出来上がっていった。

 現在の巨大アニメ産業は、著作権法親告罪的性格、「ま、いっか」から始まったと言える。

 たかだか、と言ったら権利者の皆さんは怒るかもしれないが、海賊版を潰すために、天地がひっくり返るほどの著作権法大改革をやってのけるというのは、ものすごく乱暴な話だ。つまりこれは、著作権侵害を関係ない第三者でも訴えることができるようにするということだからである。

 ただ第三者といっても、警察がアキバの路地裏で直接違反者を検挙するということにはならないだろう。なぜならば警察が独断で動けば、民事非介入の大原則が崩れてしまうからである。じゃあ誰が訴えるのか。

 ここまで考えれば、実は著作権法非親告罪化の動きは、海賊版対策という前提を媒介として、裏側では権利者団体の強制力強化へと繋がっているのではないか。

 では実際にオリジナルを作る段になったときに、全くなにも参考にせず、突然天から振ってきたようにアイデアがひらめくのだろうか。そうではない。アイデアは雲の上にあるのではなく、その人が沢山蓄積してきたコンテンツと経験の引き出し、すなわち脳の中にあるのだ。

 よく年配のクリエイターの方が、「突然ストーリーが頭にパーッと……」などと幸せそうにおっしゃるが、それは長年人生を創造に捧げてきて、本当に幸せなのだろうと思う。その浮かび上がった元ネタが何だったのか、あまりにも沢山のものを複合的にひねりすぎて、自分でも分からなくなっちゃってるからである。いや、これは決して悪口で言っているのではない。経験を積むということは、そういうことなのだ。

 一方で若いクリエイターは、まだ記憶も新しいし引き出しの数も少ない。だから創作活動には、常に良心の呵責がつきまとう。左手にお手本を持って右手で作ったものと、頭の中で勝手に混ざっちゃってできあがったものの違いを知っているのは、作った本人だけだ。さらに元ネタからどこまで変えたらオリジナルと呼べるのかは、誰にもどうにも判断できない。

 そしてその元ネタを作った人が、「これはもしかしてオレが作ったアレが元ネタかも……」と気付いても、普通は「まっ、いっか」で済ませるわけである。なぜならば、その元ネタにもまた元ネタがあり、きっとその元ネタの元ネタにもまた、元ネタがあるのだ。もしかしたら3周ぐらい回っていくと、最古のオリジナルと最新のオリジナルが、誰がどう聞いても一緒、ということになるかもしれない。創造のサイクルの中では、「知らないうちに同じになっちゃった」ということは、容易に起こりうる。

 著作権法非親告罪化が危険なのは、モノの作り方を知らない人間が、デッドコピーとクリエイティブの違いを無視して権力を行使するようになるからである。そのために権利者団体の幹部は、クリエイターなのだという反論もあろう。だがモノの作り方を忘れちゃった人は、最初からそれを知らない人よりも始末が悪いような気がするのは、筆者だけだろうか。

 どこでどう間違ったのか知らないが、知財推進計画は、コンテンツを作る立場の人間をゆっくりと殺していくことになるかもしれない。