caprinのミク廃更生日記

初音ミクやVocaloid、ゲームやアニメのニュースサイト

まず、あなた自身が他人を甘えさせてあげてください (萌え理論Blog)

http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20071230/p3

 はてブとかを見ると、みんな感情さえもとことん理論詰めで説明したいのかなあと思ってしまった。頭の偉い人たちは大変だ。でも、人間って理論的な感情だけで生きているわけじゃない。例えば、子供が産まれて、親になって、今までつっけんどんだった人が、まさに生まれ変わったように優しい人間に変貌したりするじゃん。大人が子供に教えること以上に大人が子供に教えられることってやっぱりあると思うんだよ。いや、大人になり、ずる賢くなって、計算高くなって、妥協を覚えてしまった時に、子供達が大人に遥か彼方に置き忘れてしまったコトを思い出させてくれるというべきか……。その時の感動を忘れて次の日にはどなり散らしているような人はもちろん問題外だけど、だからといってこの作文がつまんないものかというと、そうでもないと思う。この作文そのものは、子供が100%書いたものであれ、大人が手伝って推敲したものであれ、やっぱりいい作品なんだと思う。*1 それは、『小学生の作文にポロポロ泣くように感化されやすいくせに、現実では「他人様に迷惑をかけるな!」「いい歳して甘えるな!」と、周囲に怒鳴り散らしている人』がつまんない人なだけであって。

 でも、

上の主張を単体で出してきたら、ずいぶん賛否が分かれそうな内容だ。だが、引用元では、小学二年生の作文に代弁させることで、批判を免れている。子供はともかく、子供を利用する大人は感心しない。

 の『批判を免れている』とか、

確かに、完全に自力で書いたなら、天才児だとは認める。ただ、邪推ではあるが実際には大人の手が入っていそうで、その場合は、ずいぶんベタな感動話に仕立て上げたなとは思う。

 の『ベタな感動話に仕立て上げた』とか、

子供は他者のポジションにある。もし自分で言ったら叩かれてしまうことを、他者である子供に代弁させて、感動のリビドーに変えてしまう。そうした感情貿易は、電通が大の得意の手法である。つまりはそういうことだ。

 の『感動のリビドーに変えてしまう』とか、この作文を大人が子供の文章と偽って書いてあるという前提で見たら、そりゃまあ楽しめるはずはないわなあ。対し、Something Orangeの人は、推敲の時点で大人が手伝っているにしても子供が頑張って書いているという前提で見てるから、こんなに素直に『感動した』と書けるんだよなあ。自分はどちらの前提に立った方がいいだろうか!? ここで、今では高校生になった中村咲紀ちゃんがネットに現れて「お母さんに手伝ってもらったのよ。」とか、「あれは、○○したものです。」とかその時の裏話を暴露してくれたらいかにもネット社会的で楽しいのだが。


 まあ、何はともあれ、はしごの人が想定するような

言及リンク 涙もろい人=情の深い人ではない。気の強さが涙もろさに顕れているだけだ (heartbreaking.)

http://d.hatena.ne.jp/hashigotan/20080101/p1

俺みたいに他人を傷つけても何とも思わない薄情な人間のほうが実は涙もろい。

気の強さが涙もろさに顕れているだけの場合もあるし、自分可愛さのあまり「わたしはこれに、こんなに感動して涙を流せるほど優しい人間なんだ…うおぉ」みたいに、自分にもこんな優しさがあるんだって果てしなく自分に溺れるように泣いてる時がある。情が深いわけではない… 俺は他人を言葉で傷付けても無痛の人間だから。

涙もろい人が必ずしもイイ人ってわけじゃない… 涙もろい奴のほうがろくでもねえんだ。

感情の表層は対象に心動かされて泣いているようでも、感情の深層では自分が可愛そう、うぉぉー… って感じで自分に泣いてるだけ。

 みたいな感じに、感情の発露で泣くのではなく、計算の上での涙ばかりな生き方も息苦しくて詮無い話だ。

*1:唯一、問題がある場合は『小・中学校作文コンクール』であるにも関わらず、大人が100%書いていた時だ。その場合は、『水の言葉』と同じようにインチキ・ズルであるがゆえにどんなに名文でも全てが台無しになってしまう。