ケータイ小説を笑うまえに。 (Something Orange)
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071128/p1
もともとは、読売新聞に掲載されたものらしい。それを「奇妙なもの」を捉えた投稿者により、『VOW』に送られて来たわけである。
北村によると、投稿者の言葉は、「オーストラリアにでも住んでいらっしゃるのでしょうか?」。そして、採用した編集者のコメントは、「タ、タイトルが「れ」。凄いな。れ。しかもただの子供のたわごとだしなあ。れ。」だった。
ここには、「ママ、ここにカンガルーがいるよ」といった子供と、その言葉を受け止めた親、そしてその親子のやり取りを「詩」として評価する評者を、まとめて一段階下のものと決めつけ、嘲笑する視線がある。
カンガルーを見た子供が「れっ?」と驚いた、ただそれだけの「子供のたわごと」の、どこが詩なのか、と。
自分も「れ」を見て「ママ、ここにカンガルーがいるよ」と子供が言った風景を想像すると、かわいらしくてとてもなごんでしまう。でも、それを踏まえた上で『VOW』ネタって、基本的に「おもしろい」ものを投稿するのであって「奇妙なもの」というのはその中の1ジャンルでしかないように思う。少なくともこの場合、投稿者はこの文章を「ああ、おもしろい!!」と思ったから投稿したのであって、「みんなで一段階下のものを嘲笑するため」にわざわざ投稿したとまでは思わないなあ。どちらかというと、これは投稿者の「オーストラリアにでも住んでいらっしゃるのでしょうか?」というボケを編集者がうまい突っ込みで切り返せなかったのが主な敗因だと思う。それに新聞投稿欄よろしく「素晴らしいお子様ですね、うらやましい」とか「お子さんの着眼点に脱帽です」みたいに褒め殺しみたいなコメントをされても、多分『VOW』に乗ることはないだろうしね。こういうところは、単に真面目な新聞とネタ本というメディアの媒体の違いじゃないかな。ま、投稿者の真意がどうであれ、「VOW」編集者は自身のメインの読者層を考えて(!?)、はっきりいえば下品なもの、良識的でないものを多数掲載するので、そのネタに不快な思いをする人がいるのは事実か……、そこはちゃんと認識しておきたい。
こういう文章を読むと、ぼくは、思う。せめて読んでから語るべきではないか、と。
もちろん、『恋空』は下らない話なのかもしれない。ばかばかしい小説まがいに過ぎないかもしれない。じっさい、いままで読んでみたケータイ小説はどれもひどいものだった。
しかし、だからといって、読者(というか「非」読者)の側の傲慢が正当化されるわけではない。『恋空』がどれほど駄作であろうと、読みもしないで「作品だとか物語といったモノではなく商品」だ、と決め付けるような態度は不当としかいいようがない。
この部分についてはほぼ全面に同意。
と、いうわけで『恋空』を読んでみた。いやあ、100ページも読んだらくらくらしてきて、そこから最後まで読むのも苦痛だったよ。いや、これはひどい。商品のテキストとしては破壊的にひどい。
でも、この自分に湧き上がる気持ち悪さの源泉を考えると、自分はこの文章そのものよりも、このクオリティのモノをそのまま出版し、さらにそれを映画化した大人の分別の無さに文句が言いたい。これが果たして、出版していいレベルのクオリティなのかと、売れればなんでもいいのかと。これがタダで読めるケータイ小説のひとつであればさして文句は無かった。中学生の文集のたあいもないひとつであれば、Web上に無数にあるゲームやアニメを元にした個人の妄想サイドストーリー(SS)とかなら文句はたいして無かった。でも、出版することによって、不特定多数の目につく、かつ、たくさんのプロと同レベルの土俵に上げられるテキストとしては、果たして分別のある大人が出版を決定していいことだったのか!?と思ってしまう。悪いけれど、これはまだ「井の中の蛙」としてまだ囲っておくべきレベルのテキストだろう。金になるからといって、平泳ぎの出来ない蛙をいきなり大海に放り込むなよ、すぐに死んじゃうぞ。*1 また、そこにいる悪い大人達は、心にも思ってもいないのに、「女子高生のバイブル」とか「せつないラブストーリー」とかの煽りを付け足すなよ。mixiのレビューで誰かが書いていたけど、これは「せつない」ではなく「(内容が)いっさいないストーリー」だろう。
何より、個々の作品がどんなに稚拙だとしても、それは、いままで読書に親しんでいなかった層に届いているという事実は無視できないものがある。
小説とは、ただ少数の同じ価値観のもち主の間だけで回覧されていれば良いものなのだろうか? ぼくはそうは思わない。読書の庭の扉は、常に、新しい訪問者へ向けて開かれているべきである。
ぼくは文学であろうが、ライトノベルだろうが、ケータイ小説であろうが、自分が読みたいと思ったものを読み、自分が評価に値すると思ったものを評価する。
なぜなら、ひとを見下したりひとに自慢するためではなく、自分の人生を豊かにするために読んでいるからだ。
ケータイ小説だろうが、ただのライトノベルだろうがアダルトビデオだろうが、良いものは良い。逆に、主流文学や芸術作品だって、下らないものは下らない。そう思う。
まあ、同意。でも、私は名作と呼ばれるような本の読書は全くしていないのに、『恋空』みたいなモノはちゃんと読んでいて、かつそれに感動して共感している今の女子中高生に関しては、ちょっと形容しがたい脅威を感じる。DQN親が子供に名付ける意味不明な言葉遊びと同じように……。ぶっちゃけて言うと、『恋空』って、文章の稚拙さもさることながら、その世界観の圧倒的な退廃感がおっさんの私には気持ち悪いんだよな。年頃の中高生が読むモノとして、これはまったく健全ではない。友人の裏切り、嫌がらせ、SEX、レイプ、妊娠中絶、青姦、シンナー、これらの出来事があくまでもさも普通の高校生の日常のごとく、まるで空気を吸うように軽やかに薄っぺらく展開していく*2さまは、取り返しのつかない大人にはまぶしいばかりの青春時代の人達が憧れ望む世界はこんなにも劣化してしまっているものなのか!?と思ってしまった。ま、思春期ならある程度、火遊び的なことに憧れるのも分かるが、スイーツ(笑)なお年頃になってもこんな世界に憧れるようじゃやっぱり駄目だろう。ちょっと背の低い普通の女子高生が、青姦やって妊娠してんじゃねえ、それは悪いけれど、普通じゃねえ。(笑)
とにかく、自分は普通の本だろうが、ラノベだろうが、エロゲだろうが、ケータイ小説だろうが、読みたくなれば読むが、この「恋空」に関しては下らないという評価以上はつけられなかった。もう、おっさんだからやっぱ無理ぽ。
ただ、ケータイで読みやすいような区切り方によって、今までのテキストとは違う独特のリズムがあることは分かった。小さい「あ」(ぁ)とかみたいな半角カタカナの多用とかは、まあ文化圏の違いで慣れればまだ吸収できないことはない。(自分がそういう文を書けるとは思えないが。) とりあえず『恋空』みたいなトンデモじゃなくて、ケータイ小説といっても馬鹿にされないような、もっとまっとうなテキストが出てくることを望みたい。
■コメント欄より
仕掛け人の中には愚劣なワイドショーを制作している連中ように、見て批判する連中を
「お前等が見るから作るんだ」と、
「見たら負け」というイデオロギーで括るきらいがあります。
このエントリのテーマが小説なのはわかってますが、その方向で言えばくだらない小説をくだらないと言う資格があるのは
読んだ者なのか、購入した者なのか、読んでなくても払った税金が図書館に使われていて(ry)、キリがありません。
「金払わせた時点で勝ち」の仕掛け人の逆は、
「金返せ」と文句を言う購入者でしょうか。
たまたま上の人が爆笑問題の太田氏の意見を紹介してますが、こないだのボクシング亀田問題では「だってお前等見たんじゃん、視聴率上げたじゃん」と「見たら負け」の立場をとってました。
そういった仕掛け人に対しての一番効果的な行動は
「無視」でしょうか?「読まずに文句」でしょうか?
■言及リンク 読まずに評価したっていいじゃない (魔王14歳の幸福な電波)
http://d.hatena.ne.jp/Erlkonig/20071127/1196237264
でも、「読まずに下した評価」は所詮「読まずに下した程度の評価」に過ぎないことは自覚しておくべきでしょう。要は発言の信頼度の問題です。そしてケータイ小説の場合、読まずに下した程度の信頼度の低い評価を自信満々で主張する人が多すぎるのだと思います。
■関連リンク 超リアルなケータイ小説、超エロいエロゲー、超メイドなメイドさん (シロクマの屑籠(汎適所属))