caprinのミク廃更生日記

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今月の1本:ファイナルファンタジー7 アドベントチルドレン (毎日msn)

http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/manga/1hon/news/20051202org00m200130000c.html

 結論から言おう。

 本作は『映像』作品としては全く話にならないレベルのものだ。だが、ここにあるのは明らかに『今』の日本の文化の姿でもある。芥川賞受賞作品を5分と読まずとも、この「AC(アドベントチルドレン)」を1分見れば、今、我々の抱えている欲望のあり方や行方の考察は出来る。これはある意味、すぐれた『文学』作品である−−。

 ストーリーと会話のレベルは低い。そりゃ、スクエニだからな。(おい) それは、多分子供でも分かることだし、この作品をネタにして今の日本の世代の隔絶を見ることが出来るだろうか!?
 しかし、私が映画版の「ファイナルファンタジー・ザ・ムービー」よりは、CG映像のすごさで楽しめたのは事実で、それはFF7というゲームをやっていたからに他ならない。

映画には、大きく分けると二つの映像表現がある。

 一つは目の前にある光景や、演技をする俳優をそのまま撮影する実写作品、もう一つは作家により抽象化された絵を動かすアニメーション作品である。

 だが、「AC」で描かれる映像は、基本的にはどちらにも属さないように見える。

 CG技術の向上で実写作品のような外見を持つ登場キャラクターだが、彼らは『演技』をしない。キャラクターは俳優ではなく『記号』だからだ。そこには外見と内実との『矛盾』が生じ、見る者にある種の違和感を覚えさせる。

 しかも、なまじ実写風に見えているために、通常の『映画』と比べるとお話にならないレベルの低さの演出が展開される。ただ、アニメとして考えれば、このレベルのせりふや演出は深夜に放送中の作品にいくらでもある。

 だが、むしろこの『違和感』、この『引き裂かれた感覚』をどう見るかが、この作品の評価を左右する鍵だ。

 「AC」は9月14日に発売されたが、既に70万本を超える大ヒットとなっている。映像DVDとしては、スタジオジブリに次ぐケタ外れの売上と言っていい。そして、おそらく70万本の売上を支えた若い世代のファンたちには、この違和感が無理のないものに映っている。

 対して、上の世代はこの違和感を『映像』として致命的なものに見ているため、評価をする術すら失っている。

 ここでも、「AC」は引き裂かれている。だが、この『分裂』を『現代的』と言わずして何を『現代的』と言うのか。

 下手に70万本も売れたから、「FF7 AC」は普段ゲームをやらない映画ファン層にも注目された。だが、これはあくまでもFF7ユーザーに向けられたゲームではない映像ファンディスクであり、ゲームの後日談であり、FF7というRPGで「エアリスの死」や「クラウドセフィロスの最後の戦い」というイベントをプレイした(見た)者にしか、これを評価するという軸が無いというのは無理からぬことだと思う。だから、私の考えでは、この人の言う世代によって引き裂かれたのではなく、若い層であってもゲームをやらない層には「違和感」が残ってしまうのではないかと予想する。
 実は、このDVDを語るのに必要な共通知識は、映画や文学の知識でもましてや失敗作の「ファイナルファンタジー・ザ・ムービー」などではなく、「ファイナルファンタジー7」をやったかどうかだけだ。映画の表現としてはなんてことはない「FF7 AC」の最後のエアリスの幻が現われるシーンでちょっと良かったと思うには、「FF7」の総プレイ約50時間(私のプレイ時間)が必要なのだ。だから、ゲームをやらない上の世代には分からない、当たり前のことだ、やっていないんだから…。そしてこの人(大塚英志だよね!?)がやったように映画やDVDとしての単体パッケージとしてこれを論じるのも難しいと思う。本来、この作品がこれだけ売れて、アカデミー賞にでも出そうか!?という動きのほうが異常なんだからね。

 そして、我々は仲間内でこう言いあったりする。「演出とかダサダサだったよね〜。」「でも、最後のシーンはなつかしくてちょっと良かったね〜。」「だけど、アレはないよな〜。」<---いろいろ文句を言いつつ、実は結構お気に入りらしい

 映画としては最低。異論は無い。だけど、ファンディスクとしてはアリなんじゃないか!?。

 映像は間違いなくすごい。FF7の当時の記憶を蘇らすには最適のファンディスクか!?