caprinのミク廃更生日記

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恋愛記憶のすすめ (虚馬ダイアリー)

http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20070311

 まあ、なんですか。はじめにぶっちゃけますが、俺、心が汚れてるんで、新海監督作品は苦手だし前作「雲のむこう、約束の場所」なんてだいっきらい。この作品を見てもやっぱ苦手意識そのものは消えなかった。初恋のあまずっぱさやら、「あのころの僕ら」やらの全肯定、というのはまだいいんですよ。そういうのが恥ずかしいのではなくて、それを肯定する際に付随する「自意識」までも見事なまでに肯定しちゃうところがね・・・ちょっとダメ。でも、そこが新海監督の本質なんだって改めて思った。

 この人の作品を好きになる、ということは、そういう自意識までも「かっこいい」もしくは「好もしい」という感情がなくちゃならないんだけど、俺はね、「かっこ悪い」としか思えないんですよね、そういうの。俺は昔の俺が恥ずかしいし、たまにそういうのが自分から出てしまうと、もう、嫌で嫌でしょうがない、みたいな人間だから、だからもう、相変わらず新海作品を見るといたたまれなくなっちゃうんだけど。


・関連リンク 映画『秒速5センチメートル』鑑賞 (Kawakita on the Web)

http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20070304#p1

再び第3話「秒速5センチメートル」。冒頭、彼は踏切でその人とすれ違う。それを「邂逅」と語っている/書いている人が多いことに驚く。そんな筈があるわけないじゃないか。その人が「振り返る」ことはないし「あの人」であろうはずがない。偶然通りかかったその人に「あの人」を重ね合わせて昔を思い出したのかもしれないし、実は第1話と第2話で語られてきたことは今の現実に不全感を抱く彼が通りすがりのその人を見た瞬間に捏造した物語(夢オチ)かもしれない。僕はそれでもいいと思う。過去の思い出を語ることとそのことにどれだけの違いがあると言えるだろうか。

今敏監督『千年女優』で現実と虚構を越えて「あの人」を追い続けた藤原千代子は「そんな私が好きなんだもの」と己の生を肯定してみせた。「彼」はすでに何をどうすればいいのかわからなくなっていた。そんなことはとっくの昔からわかっていた。それでも彼は遠くを見つめ対象を欠いたまま何かを追い求め続けることを止められない。それはこれからも彼の原動力であり桎梏であり続ける。それを抱えたまま踏切を渡って、時に後ろを振り返りながら、前に進む。ラストでの彼の微笑みはそんな自分をようやく肯定できた証だと思う。

自意識過剰なのは承知の上で。そのときの歳が違う。出来事の配列・時系列が違う。様々な数字が違う。季節が違う。場所が違う。それでもこれはまぎれもなくそしてどうしようもなく「僕の」物語なのだ。