女の敵は女 (NBonline - 遥洋子の「男の勘違い、女のすれ違い」)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20070822/132845/?P=1
独りで生きていけばよろしい。バカバカしいなら親戚に付き合うな。そして、それこそが自分以外を敵とする修羅の道、頑張れ、応援はする。
■言及リンク 敵は在るものでなく、作るもの (背後からハミング)
http://d.hatena.ne.jp/yellowbell/20070824
そもそも「家」という制度は維持するのに大変なコストがかかるものです。
法要をするということは、その先祖の霊=「家」を守ってきた家族もいるということです。
おそらくそれは「それではここからは男だけで…」と言った本家の長男でしょう。
さらに言えば、「洋子ちゃんはもう男として生きるねんて」と言った兄嫁さんがその「家」の制度を切り盛りしている当事者なのです。そうすれば、その言葉の裏に「じゃあ、アンタがこの面倒くさいシキタリを継げよ」という想いがあるように見えてきます。
そうすれば「女の敵は女」ではなく、「日頃都会で1人気ままに暮らす本家の娘が、たまに家に帰ってきたら小理屈こねて、分家筋まで集まって和気藹々とやるはずのせっかくの法要を台無しにし、兄と兄嫁の顔に泥を塗りくさる」という、「長男の嫁の敵は小姑」というのが正解です。
家族なんて!と絶望するのであれば、「家」なんて捨てるのがいいでしょう。墓に行かなくてもご先祖は想えます。「故郷」なんて「家」がなくともふるさとであり続けます。愛なんて、他人とのかりそめで賄えると割り切れるのであれば、そんな人生も味があります。
でも、もしも日頃帰らない「家」の一員であることを受け入れるのであれば、せめてその「家」が守っている風習の前には頭を垂れた方がいいでしょう。理不尽とか、理不尽でないとか言うのは、それを日頃守っている人々が言うことで、時に参加するだけのお客様が言って受け入れられることではありません。
それは男女平等とかそんなことではないのです。誰が「家」の制度を守ってくれているかという問題です。
だからこそ、独り者で日頃家のことを省みない本家の娘が、”「なぜ法要に私を入れないのか」と気色ばみ、強引に儀式に加わった”りしたら、日頃「家」という制度をさまざまなコストを払いながら守っている長男やその嫁としては、そりゃあ面白くはないでしょう。
遥さんは、そのコスト(金銭に非ず)をどういう形で分担していますか?という話でもあるわけですから。
「家」なんて制度はいらない!と絶望するのも人生でしょう。
そうして1人で生きていくのも、悪くないものです。
でも、だからといって、その「家」という脈々と続いてきた制度を、一抹の不条理を感じながらも受け継いで日々坦々とこなしてく素朴な人生を、「家族こそ差別の元凶」という暴言で否定するのはあまりにも感情的で、酷にすぎると思うのです。
「家」という制度を否定し、「ムラ」という制度を否定し、「家族」という単位を否定し、すべての人がただの個人に戻って自分の身以外に寄る辺を失ったとき、そこには「自分」と「自分以外」しかいなくなってしまいます。
むしろそんな世界にこそ、「自分以外は敵」という修羅の世界があるように思うのです。
どうか、理不尽なことはあっても、それを「お互い様」と笑いながら生きていく、優しい人生があることを思い馳せてほしいと思います。
そして、どうかそんな優しくも愚直な人生を、沈没する船などに例えないでほしいと思います。
敵は、そこに在るのではなく、自分が敵と認識することで自らの中に作るものですから。
ほぼ同意です。自分なんかは母親以外の親族に15年以上は会っていないので気楽なもんですが、まあ、寄るべき所がないというのもぶっちゃけ寂しいもんです。