オタク・サブカル・エヴァンゲリオン (萌え理論Blog)
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20070825/p2
そのように両者は相容れない。しかし、大流行したアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は、オタクとサブカルの境界線上にあった。その境界性がオタク・サブカルさらに一般にまで浸透させた力だと考える。大雑把に、エヴァは物語の前半がオタク的で、後半がサブカル的だろう。後半特に終盤の破綻は、作家の表現を支持するかどうかで意見が分かれたのではないか。(パンク)ロックでギターを壊すような感じだと捉えれば、破綻すること「によって」表現できることもある。ただし、ウェルメイドなのが良いとされるテレビアニメでそれをやったのが事件だったのだ。
昔はハードロック系の音楽雑誌とかにエヴァ特集とかのページがあって不思議だったんだよなあ。あれはサブカル視点から見た人達のエヴァだったのか。サブカル系の人に話を聞くと、もうTVの24、25話でもうおなかいっぱいというか、のちの映画版3作は蛇足(別にもう見る必要はない)だと思っている節があって、彼らにとってはあのTV版の破綻にこそ意味を見出していたのかもしれない。
■言及元リンク ヱヴァに対する庵野秀明の意図と「ぼくら」の受容の形態 (BLUE ON BLUE)
http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20070903#1188820122
ヱヴァンゲリヲン新劇場版の評価がまっぷたつに分かれている模様。エヴァを引きずっている人々からはおおむね大好評だけど、そこから距離を置いた人々からすれば「ただのアニメ映画」というくらいの感慨しかないようだ。
で、ぼくはトライブとしては前者に属するのだけど、彼らが熱狂しているように熱狂することはどうしてもできない。というのも、彼らの大半が「ウェルメイドかつ高水準なアニメとしてエヴァが再生されること」であること、そしてそれを消費し、戯れることを求めているのに対して、ぼくはあのTV版〜旧劇場版エヴァの「破綻」と「剰余」にこそ惹かれ、囚われたままの人間だからだ。
そして、ヱヴァもまた、ウェルメイドで高水準なアニメとしての体裁を取り繕いつつ、その隙間隙間に旧劇場版以来の「破綻」と「剰余」の徴が仕込まれている。あたかもそれはこの作品が旧劇場版エヴァの「逆行ループ」であるか、さもなくばTV版26話における「シンジの望む可能性世界」であるかのごときアイコンが、作品中にちりばめられ「剰余」と化している。その有様は、この作品が庵野秀明自身による「エヴァの消費と、その戯れ」だ、とまで主張しているかのようだ。
私的には、バッドエンドは1回見たのだから、今度は正しいルートでトゥルーエンドを見てみたいというのがある。それと踏まえた上で、庵野監督が視聴者の予想の遥か斜め上を行く展開に持っていくことも、同時に期待しているのだが。新世紀を超えた今、エヴァをリビルドするということは、そんなある意味ゲーム的文脈に乗っ取って楽しむということなのだと思う。まあ、今はまだ『序』しか公開されていなにので、先の展開はまだまだ読めないのだが、RPGやADVなどのゲームをやっている時って、実はクリエイターが用意したクライマックスの時よりも、プレイヤーが先がどうなるのか読めなくてワクワクしている時が実は一番盛り上がっているんだよね。
■関連リンク ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 89点(100点満点中) ((´-`).。oO(蚊取り線香は蚊を取らないよ))
http://blog.livedoor.jp/tsubuanco/archives/51048000.html
エヴァといえば判で押した様に、謎、内面世界、宗教性などのキーワードを並べ立て、それこそが作品最大の魅力であるかの様に語る人間が後を絶たないが、そうした要素はあくまでもトッピング、スパイスにすぎず、何よりもまず、王道娯楽作品としての出来が異常に良かった事で、まずアニメファンの絶大な支持を受け、それに追随する形でメディアに煽られた一般層、サブカル層などが先述のキーワードを並べ立て、まるで自分が高尚な存在になったかの様に、自分の言葉の様に語る、滑稽極まりない現象が"エヴァブーム"として認識されてしまう事態となったのは痛々しい限り。
ははは、まったくその通りだ。
■考察リンク 新世紀エヴァンゲリオンと新劇場版ヱヴァンゲリヲンの相違 再構築 (最終防衛ライン2)
http://d.hatena.ne.jp/lastline/20070904
■関連リンク 劇場版エヴァンゲリオンが面白すぎる件 (【2ch】ニュー速クオリティ)
http://news4vip.livedoor.biz/archives/51047410.html